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2.252010
鎌倉幕府の鬼門(4) 四神相応
古来、都市をつくる時 風水理論や陰陽道を意識していました。
町づくりの原理として「四神相応(しじんそうおう)」の定義があります。四神相応の条件が揃った土地は吉意が強いといわれます。四神とは東西南北を司る霊獣のことであり、その霊獣は各々が自然形態の象徴となっています。つまり、東は「青龍(せいりゅう)」が治めて河川が龍の象徴。西は「白虎(びゃっこ)」で街道を表し、南の「朱雀(すざく)」は海。北は「玄武(げんぶ)」で山が象徴となります。ただし、厳密な条件付けをするには、方位を見極める中心軸(南北の神聖軸)が必要とされす。
例えば、平安京では天皇が居住する内裏から朱雀大路を南北軸とし、青龍=鴨川、白虎=山陰道、朱雀=巨椋池(おぐらいけ)、玄武=船岡山の地形を選びました。そして、鬼門の方向に比叡山延暦寺が、裏鬼門の方向に岩清水八幡宮が置かれました。
江戸城では南北軸を東北東へ移し、城の正面として大手門を配置し、青龍=平川、白虎=東海道、朱雀=江戸湊、玄武=麹町台地を選びました。そして、表鬼門に東叡山寛永寺・浅草寺・神田明神・遠方には日光東照宮を 裏鬼門に三縁山広度院増上寺・山王権現(現・日枝神社)をおきました。
鎌倉では鶴岡八幡宮を中心に若宮大路を南北軸とし、青龍=滑川(なめりがわ)、白虎=東海道、朱雀=由比ガ浜海岸、玄武=大臣山(だいじんやま)の地形を選びました。この軸は江戸城と同様、正確な南北ではなく、北が真北から東へ27度振れています。この軸を仮に「頼朝設定南北軸」とすると、大蔵幕府からみて「頼朝設定南北軸」の北東の方角に「荏柄天神社」、南西の位置に「江島神社」があり守護していました。
また、表鬼門に奥州藤原氏を平定を記念して、平泉中尊寺の二階大堂を似せた永福寺(ようふくじ 廃寺)を創建し、藤原氏・義経の怨霊が北東から鎌倉に入ることなく永福寺に留まるように配置されました。裏鬼門側にも頼朝は弁天堂(現 旗上弁財天社)を源平池に建立しています。弁天堂は、1184年頼朝の枕元に現れた八臂弁財天(はっぴべんざいてん)が平家追討の旗上げを促し、1185年壇ノ浦で平家一族を倒すことが出来たということを証として建てられました。ちなみに「鎌倉江の島七福神めぐり」は「江島神社」の江の島弁財天と「旗上弁財天社」の旗上弁財天の2箇所の弁財天を定めているので、七箇所でなく八箇所を巡ります。
その他、本覚寺の夷堂、横浜市金沢区富岡の富岡八幡宮、弘明寺などが大蔵幕府の鬼門を守護しているとされています。
では、なぜ武家の棟梁となった源頼朝は荏柄天神社を鬼門においたか?
源頼朝は同じ配流の運命をたどり、朝廷を敵として雷神・天神になった菅原道真を崇敬し、荏柄天神社を表鬼門の守護神としたと考えられます。これは私見ですが、「江島神社」は552年創建、「荏柄天神社」は1104年に創建されています。この軸が北東(南西)を指すようにして、1180年あとから頼朝は元八幡を現在の「鶴岡八幡宮」の位置に還座し、「頼朝設定南北軸」を設定したと考えられないでしょうか。